2012年7月31日火曜日
内村鑑三の「聖書の読方」その5
若しキリストが説かれし純道徳と称えらるる山上の垂訓が斯の如しであるならば其他は推して知るべしである、若し又人ありて馬太伝は猶太人に由て猶太人のために著されし書なるが故に自から猶太的思想を帯びて来世的ならざるを得ないと云うならば、異邦人に由て異邦人のために著わされし路加伝も亦イエスの言行を伝うるに方て来世を背景として述ぶるに於て少しも馬太伝に譲らないのである、医学者ルカに由て著わされし路加伝も亦他の福音書同様著るしく奇蹟的であって又来世的であるのである、イエスの出生に関する記事は措いて問わずとして、天使がマリヤに伝えし
2012年7月30日月曜日
内村鑑三の「聖書の読方」その4
我を呼びて主よ主よと言う者尽く天国に入るに非ず、之に入る者は唯我天に在す父の旨に遵う者のみ、其日我に語りて主よ主よ我等主の名に託りて教え主の名に託りて鬼を逐い、主の名に託りて多くの異能を為ししに非ずやと云う者多からん、其時我れ彼等に告げて言わん、我れ嘗て汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れと、是故に凡て我が此言を聴きて之を行う者は磐の上に家を建し智人に譬えられん、雨降り、大水出で、風吹きて其家を撞たれども倒れざりき、そは磐をその基礎と為したれば也、之に反し凡て我がこの言を聴きて之を行わざる者は砂の上に家を建し愚人に譬えられん、雨降り大水出で、風吹きて其家に当りたれば終に倒れてその傾覆大なりき。
2012年7月29日日曜日
内村鑑三の「聖書の読方」その3
如斯くに来世を背景として読みて主イエスの是等の言辞に深き貴き意味が露われて来るのである、主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ「我れ未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」と言う人の言ではない、能く死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、始であり又終である、今あり昔あり後ある全能者である(黙示録一章八節)、故に陰府と死との鑰(秘密)を握り今ある所の事(今世の事)と後ある所の事(来世の事)とを知り給う(同十八、十九節)、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者(蹂躪らるる者の意)は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、言辞は至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。
其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)審判に干り、又其兄弟を愚者よと称う者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又狂人よという者は地獄の火に干るべしとある(馬太伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言は審判の日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪に陥さば抉出して之を棄よ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又施済は隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるに鑒たまう神は天使と天の万軍との前に顕明に報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、蔵みて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(路加伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとの教訓である。
殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)審判に干り、又其兄弟を愚者よと称う者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又狂人よという者は地獄の火に干るべしとある(馬太伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言は審判の日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪に陥さば抉出して之を棄よ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又施済は隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるに鑒たまう神は天使と天の万軍との前に顕明に報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、蔵みて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(路加伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとの教訓である。
殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
2012年7月28日土曜日
内村鑑三の「聖書の読方」その2
心の清き者は福なり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論現世ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然なり、然れど彼の時(キリストの国の顕われん時)には面を対せて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(哥林多前書十三の十二)、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造主なる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光輝その質の真像なる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖父を見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くに再地に臨り給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。
和平を求むる者は福なり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者には権を賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞は斯くも遠大無窮である。
義き事のために責めらるる者は福なり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有なれば也、現世に在りては義のために責められ、来世に在りては義のために誉めらる、単に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害らる、栄光此上なしである、我等もし彼と共に死なば彼と共に生くべし、我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王たるべし(提摩太後書二章十一、十二節)、キリストと共に棘の冕を冠しめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。
「我がために人汝等を詬※[#「言+卒」、50-5]り又迫害偽わりて様々の悪言を言わん其時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等の報賞多ければ也、そは汝等より前の予言者をも斯く迫害たれば也」と教えられた、天国は万事に於て此世の正反対である、此世に於て崇めらるる者は彼世に於て辱しめらる、此世に於て迫害らるる者は彼世に於て賞誉らる、「或人は嬉笑をうけ、鞭打れ、縲絏と囹圄の苦を受け、石にて撃れ、鋸にてひかれ、火にて焚れ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して難苦しめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠野と山と地の洞と穴とに周流いたり」とある(希伯来書十一章三十六―三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白に証明して、今日と雖も稍々之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたる喜楽に因りてその恥をも厭わず十字架の苦難を忍び給うた(同十二章二節)、信者は希望なくして苦しむのではない、彼も亦「其前に置かれたる喜楽に因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善き京城を備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとて標準に向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。
和平を求むる者は福なり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者には権を賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞は斯くも遠大無窮である。
義き事のために責めらるる者は福なり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有なれば也、現世に在りては義のために責められ、来世に在りては義のために誉めらる、単に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害らる、栄光此上なしである、我等もし彼と共に死なば彼と共に生くべし、我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王たるべし(提摩太後書二章十一、十二節)、キリストと共に棘の冕を冠しめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。
「我がために人汝等を詬※[#「言+卒」、50-5]り又迫害偽わりて様々の悪言を言わん其時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等の報賞多ければ也、そは汝等より前の予言者をも斯く迫害たれば也」と教えられた、天国は万事に於て此世の正反対である、此世に於て崇めらるる者は彼世に於て辱しめらる、此世に於て迫害らるる者は彼世に於て賞誉らる、「或人は嬉笑をうけ、鞭打れ、縲絏と囹圄の苦を受け、石にて撃れ、鋸にてひかれ、火にて焚れ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して難苦しめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠野と山と地の洞と穴とに周流いたり」とある(希伯来書十一章三十六―三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白に証明して、今日と雖も稍々之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたる喜楽に因りてその恥をも厭わず十字架の苦難を忍び給うた(同十二章二節)、信者は希望なくして苦しむのではない、彼も亦「其前に置かれたる喜楽に因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善き京城を備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとて標準に向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。
2012年7月27日金曜日
内村鑑三の「聖書の読方」その1
聖書の読方
来世を背景として読むべし
内村鑑三
十一月十五日栃木県氏家在狭間田に開かれたる聖書研究会に於て述べし講演の草稿。
聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解らない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。
「心の貧しき者は福なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。
哀む者は福なり、其故如何? 将さに現われんとする天国に於て其人は安慰を得べければ也とのことである。
柔和なる者は福なり、其人はキリストが再び世に臨り給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有である、是れ今日の如くに永久に神の敵に委ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判き給う時に地を不信者の手より奪還して之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞である。
饑渇く如く義を慕う者は福なり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨り給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待り義その中に在り」とある(彼得後書三章十三節)、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
矜恤ある者は福なり、其故如何? 其人は矜恤を得べければ也、何時? 神イエスキリストをもて人の隠微たることを鞫き給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤ある者は矜恤を以て審判かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債ある者を我等が免す如く我等の負債を免し給え」、恐るべき審判の日に於て矜恤ある者は矜恤を以て鞫かるべしとの事である。
2012年7月26日木曜日
聖書の話
スピリチュアルな事を調べ始めるといろいろな疑問が出てきます。
大体は、宗教的なことだったりして、特に聖書の引用とか、それが西洋人の当たり前なことだったりすると、意味が全くわからなくなってきて、聖書の登場人物がこういったとか言われてもわからないよっていつも思うんですが、そんなわけで、ちょっと聖書のお勉強もしておこうと思います。
聖書はネットでも勉強できます。特に本屋さんで買う必要はないでしょう。聖書関連本も同じです。ほとんどネットで完結できますよ。
私が見つけた本は、著作権が切れているので、転載しても引用しても問題ということで、これからたまにそういったものを集めてみようかなと思っています。
そんなにたくさんあるわけではないけど、まあタダで勉強できるならお得ですよね。
聖書には著作権が存在するらしいので、転載できませんが、ま、それはサイトへ見にいけばいいことなので、問題ないでしょう。
大体は、宗教的なことだったりして、特に聖書の引用とか、それが西洋人の当たり前なことだったりすると、意味が全くわからなくなってきて、聖書の登場人物がこういったとか言われてもわからないよっていつも思うんですが、そんなわけで、ちょっと聖書のお勉強もしておこうと思います。
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そんなにたくさんあるわけではないけど、まあタダで勉強できるならお得ですよね。
聖書には著作権が存在するらしいので、転載できませんが、ま、それはサイトへ見にいけばいいことなので、問題ないでしょう。
2012年7月14日土曜日
宗教とスピリチュアルなことの違いって
スピリチュアルなことに興味を持つようになって、どうしても宗教というものにとらわれてしまって、分けて考えるのが難しくなっています。
海外のスピリチュアル本には、キリスト教的なつまり聖書なんかの言葉を使っていたり、仏教の禅の教えだったりを引用していたり、その線引きが曖昧な感じがして、そのあたりがどうなのかと悩んだりしています。
つまり、特定の宗教について学ぶ事がスピリチュアルな世界を理解する近道だったりするのかな?? でもそれってちょっと違う気がします。
知識としていろいろなことを学ぶっていうのは大切だけど、ひとつの宗教にこだわったりすると、他の宗教は悪とかいわれたりして、そういうのが自分には合わないってわかってるので、何か宗教を信じるって気にはなれないかな。
ただし、精神的に辛いなって時は、そういう宗教に救われたりもしますよね。 その代わりにスピリチュアルなことなんかがうまく生かされるといいんだけど…
とりあえずクリスタルの原石を買ってみました。
なんかパワーをもらえそうな気もしてますが、使い方を勉強してみようと思います。
クリスタルの原石の通販はこちら。
海外のスピリチュアル本には、キリスト教的なつまり聖書なんかの言葉を使っていたり、仏教の禅の教えだったりを引用していたり、その線引きが曖昧な感じがして、そのあたりがどうなのかと悩んだりしています。
つまり、特定の宗教について学ぶ事がスピリチュアルな世界を理解する近道だったりするのかな?? でもそれってちょっと違う気がします。
知識としていろいろなことを学ぶっていうのは大切だけど、ひとつの宗教にこだわったりすると、他の宗教は悪とかいわれたりして、そういうのが自分には合わないってわかってるので、何か宗教を信じるって気にはなれないかな。
ただし、精神的に辛いなって時は、そういう宗教に救われたりもしますよね。 その代わりにスピリチュアルなことなんかがうまく生かされるといいんだけど…
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