2012年7月27日金曜日

内村鑑三の「聖書の読方」その1

聖書の読方

来世を背景として読むべし

内村鑑三




十一月十五日栃木県氏家在狭間田に開かれたる聖書研究会に於て述べし講演の草稿。

聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解わからない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞ことばは意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとてもまた来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。
「心の貧しき者はさいわいなり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於けるひんは来世に於けるとみを以て報いらるべしとのことである。
かなしむ者はさいわいなり、其故如何? さに現われんとする天国に於て其人は安慰なぐさめを得べければ也とのことである。
柔和なる者はさいわいなり、其人はキリストが再び世にきたり給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神のものである、是れ今日の如くに永久に神の敵にゆだねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判さばき給う時に地を不信者の手より奪還とりかえして之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞ことばである。
饑渇うえかわく如く義を慕う者はさいわいなり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世このよに於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己おのれにのみ之をんとするのではない、万人のひとしく之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世このよに於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世にきたり給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望みまて義その中に在り」とある(彼得ペテロ後書三章十三節)、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
矜恤あわれみある者はさいわいなり、其故如何? 其人は矜恤あわれみを得べければ也、何時いつ? 神イエスキリストをもて人の隠微かくれたることをさばき給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤あわれみある者は矜恤を以て審判さばかれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債おいめある者を我等がゆるす如く我等の負債おいめを免し給え」、恐るべき審判さばきの日に於て矜恤あわれみある者は矜恤を以てさばかるべしとの事である。

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