如斯くに来世を背景として読みて主イエスの是等の言辞に深き貴き意味が露われて来るのである、主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ「我れ未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」と言う人の言ではない、能く死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、始であり又終である、今あり昔あり後ある全能者である(黙示録一章八節)、故に陰府と死との鑰(秘密)を握り今ある所の事(今世の事)と後ある所の事(来世の事)とを知り給う(同十八、十九節)、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者(蹂躪らるる者の意)は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、言辞は至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。
其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)審判に干り、又其兄弟を愚者よと称う者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又狂人よという者は地獄の火に干るべしとある(馬太伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言は審判の日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪に陥さば抉出して之を棄よ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又施済は隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるに鑒たまう神は天使と天の万軍との前に顕明に報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、蔵みて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(路加伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとの教訓である。
殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
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