2012年7月30日月曜日

内村鑑三の「聖書の読方」その4

我を呼びて主よ主よと言う者ことごとく天国に入るに非ず、之に入る者は唯我天にいます父の旨にしたがう者のみ、其日我に語りて主よ主よ我等主の名にりて教え主の名に託りて鬼を逐い、主の名に託りて多くの異能ことなるわざを為ししに非ずやと云う者多からん、其時我れ彼等に告げて言わん、我れかつて汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れと、是故に凡て我が此言を聴きて之を行う者はいわの上に家を建し智人かしこきひとに譬えられん、雨降り、大水出で、風吹きて其家をうちたれども倒れざりき、そは磐をその基礎いしずえと為したれば也、之に反し凡て我がこの言を聴きて之を行わざる者は砂の上に家を建し愚人おろかなるひとに譬えられん、雨降り大水出で、風吹きて其家に当りたれば終に倒れてその傾覆たおれ大なりき。

と(七章二十一節以下)、まことに強き恐るべき言辞である、僅かに三十歳を越えたばかりの人の言辞としておどろくの外はないのである、イエスはここに自己を人類の裁判人として提示し給うのである、万国は彼の前に召出よびいだされて、善にもあれ悪にもあれ彼等が現世このよに在りて為ししことに就て審判さばかるるのである、而して彼は悪人に対し大命を発して言い給うのである、「我れ嘗て汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れ」と、如何なる威権ぞ、彼は大工の子に非ずや、而かも彼は世の終末おわりに於ける全人類の裁判人を以て自から任じ給うのである、狂か神か、狂なる能わず故に神である、帝王も貴族も、哲学者も宗教家も皆ことごとくナザレ村の大工の子に由て審判さばかるるのである、嗚呼世は此事を知る乎、教会は果して此事を認むる乎、キリストは人であると云う人、彼は復活せずと云う人、彼の再臨を聞いて嘲ける人等は彼の此言辞を説明する事が出来ない、主イエスは単に来世を説き給う者ではない、彼れ御自身が来世の開始者である、彼はただ終末おわりの審判を伝え給う者ではない、彼れ御自身が終末の審判者である、パウロが曰いし如くに神は福音を以て(福音に準拠じゅんきょして)イエスキリストを以て世を審判き給うのである(羅馬ローマ書二章十六節)、聖書は明白に此事を教える、此事を看過して福音は福音で無くなるのである、而して終末の審判はノアの大洪水の如くに大水大風を以て臨むとのことである、而して之に堪える者はのこり之に堪えざる者は滅ぶとのことである、而して存ると存らざるとは磐に拠ると拠らざるとに因るとのことである、而して磐は主イエス御自身である依頼よりたの聖言みことばしたがいて立ち、之にそむき て倒れるのである、人生の重大事とて之に勝る者はない、イエスを信ずる乎信ぜざる乎、彼の言辞に遵うか遵わざる乎、人の永遠の運命は此一事に由て定まるの である、而して能く此の事を知り給いしイエスは彼の伝道に於て真剣ならざるを得給わなかった、山上の垂訓は単に最高道徳の垂示ではない人の永遠の運命に関 わる大警告である、天国の光輝かがやきと地獄の火とを背景として読むにあらざれば福音書の冒頭はじめに掲げられたるイエスの此最初の説教みおしえをすら能く解することが出来ないのである。

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