2012年7月28日土曜日

内村鑑三の「聖書の読方」その2

心の清き者はさいわいなり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論現世このよではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然おぼろなり、然れど彼の時(キリストの国のあらわれん時)にはかおあわせて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(哥林多コリント前書十三の十二)、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造主つくりぬしなる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光輝かがやきその質の真像かたなる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖父ちちを見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くにまた地にきたり給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。

 和平やわらぎを求むる者はさいわいなり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者にはちからを賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰ヨハネ伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於てさるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞むくいは斯くも遠大無窮である。

 ただしき事のために責めらるる者はさいわいなり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人のものなれば也、現世このよに在りては義のために責められ、来世つぎのよに在りては義のために誉めらる、ただに普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害せめらる、栄光此上なしである、我等もしと共に死なばと共に生くべし、我等もしと共に忍ばばと共に王たるべし(提摩太テモテ後書二章十一、十二節)、キリストと共にいばらかんむりかむらしめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。

「我がために人汝等を詬※ののし[#「言+卒」、50-5]り又迫害せめ偽わりて様々の悪言あしきことを言わん其時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等の報賞むくい多ければ也、そは汝等よりさきの予言者をも斯く迫害せめたれば也」と教えられた、天国は万事に於て此世の正反対である、此世に於て崇めらるる者は彼世に於てはずかしめらる、此世に於て迫害らるる者は彼世に於て賞誉ほめらる、「或人は嬉笑あざけりをうけ、鞭打れ、縲絏なわめ囹圄ひとやの苦を受け、石にてうたれ、鋸にてひかれ、火にてやかれ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏ともしくして難苦なやみくるしめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠野あらのと山と地の洞と穴とに周流さまよいたり」とある(希伯来ヘブライ書十一章三十六―三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白に証明あかしして、今日と雖も稍々やや之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたる喜楽よろこびに因りてその恥をも厭わず十字架の苦難くるしみを忍び給うた(同十二章二節)、信者は希望のぞみなくして苦しむのではない、彼も亦「其前に置かれたる喜楽よろこびに因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善き京城みやこを備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとて標準めあてに向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。

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